「節分」2026.2.9
浄土真宗で大切にしている「歎異抄」という書き物の中に、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや(ぜんにんなおもておうじょうをとぐ。いわんやあくにんをや)」という文章があります。この文章の意味は、「善人が救われて浄土に生まれることができるのならば、言うまでもなく悪人は浄土に生まれることに決まっている。」ということです。
一応ここで、「善人」・「悪人」という言葉の持つ意味を解説します。ここで言う「善人」とは「自分を善人だと思っている人」、「悪人」とは「自分を悪人だと思っている人」という事です。もう少し踏み込んで言うと、「善人=自分が絶対正しいと信じている人」、「悪人=自分は正しいと思っているが、ひょっとすると間違っているのではと疑っている人」という意味になります。つまり、自分自身を振り返ってみてどう自分が見えているか、ということが問題になっています。こういう物の見方を、「内省」と言います。
親鸞聖人が言いたかったのは、「自分の正しさに疑いを持っている人こそ救われる」。そういうことだと私は思っています。
最近、自分の意見と違う人を滅多打ちにする光景をよく見ます。決してネット上や、SNSだけでなく、テレビやラジオでも、意見の違う他人を袋叩きにする光景は日常的です。こういう人たちは、きっと自分が絶対正しいと信じ切っているのだと思います。「自分は絶対に正しい、相手は絶対に間違っている」、そう思っていなければ、相手のことを滅多打ちにすることは出来ないはずですから。
一方少数派ではありますが、自分と意見が違う人に対し「相手を否定するのではなく、穏やかに自分の考えを話す」人もいます。こういう人は、「自分が絶対正しい」とは思っていないのでしょう。立場や考え方によって正解は様々だし、ひょっとすると「自分が正しいと思っているものは間違っているかもしれない」、そういう不安を内に秘めつつ話しているのだと思います。残念ながらこういう穏やかな人は、前者の「滅多打ちにする人」に比べ、あまりネット映えテレビ映えがしませんし、目立ちません。これが非常に残念なことです。
でも、自分の身近にいて欲しいのは「善人」か「悪人」か、どちらでしょう。もちろん私は「悪人」の方です。また、実は難しいことですが、私自身も常に「悪人」でいたいと願っています。
節分は、春の始まりである立春の前日だそうです。また、節分では「鬼は外、福は内」というのが定番になっています。簡単に言えば、豆を投げて都合の悪いものを追い払い、都合の良いものだけを近づける。そんな意味の風習だと思います。
私は自分にとって都合の良いものだけを身の回りに置くことは、大変危険なことだと思っています。そんな居心地のよすぎる環境だと、自分の正しさの危うさを忘れ、「自分は絶対に正しい」と勘違いしそうだからです。適度な居心地の悪さや批判は、自分の心の健康の為に必要だと思っています。結論から言うと、絶対に正しい人なんてこの世の中にいません。ですから、常に自分の中には間違いがたくさん潜んでいる。そういうことを忘れずにいられることこそが、大切なことだと思います。









